第28回 走ることは孤独か~ジャクソン?ブラウンの巻|かんがえるジュークボックス/亀山博之

コラム

誕生!陸上部

 今年の冬の山形は大雪に見舞われた。が、その雪もほとんど解けて、春もそこまでという感じがする。外に出て運動して気分が良い季節がまたやってくる。
 わたしは自転車もランニングも好きである。なので、道路が雪で白くなると安全に走れなくなるので、あたたかな春が待ち遠しくて仕方ない。

春も近い近隣の様子
春も近い

 滑りそうな道にばかり気を取られることなく、思う存分に走れる季節がいよいよまたやって来るのだ!みんなも一緒に走ろうではないか!と、いつにも増して盛り上がっているにはわけがある。というのは、この春「芸工大陸上部(TUAD RUN CLUB)」(仮)が発足されるからである。先日、その陸上部発足に関する説明会も開催された。

陸上部説明会の様子
説明会の様子

 芸工大の看板を背負って、マラソンや駅伝競技に出場し、あわよくば賞レースにも絡む勢いで走る集団を結成するのだ。まあ、まだ何も始まっていないので、運動不足を解消したいという目的だけでまずは十分。走り続けることで、いずれ何か見えてくるものがあるでしょう。とにかく、一緒に走りましょう!参加者を絶賛募集中です!入部してみたい、話を聞いてみたいという方は、ぜひわたしか事務局まで!

孤独なランナー(ズ)

 さあ、走ろう!というときにぴったりのレコードといえば、ジャクソン?ブラウン(Jackson Browne)による1977年の「孤独なランナー(Running on Empty)」が真っ先に浮かぶ。映画『フォレスト?ガンプ』で走る才能を開花させたガンプのシーンでも使われていた。ランニングといえばこの曲「孤独なランナー」とかんがえるのはアメリカ人も同じらしい。が、よくよく詩を読めば、これはランニングの歌ではないことがわかる。クルマの運転を人生にたとえている曲だ。あわてんぼうのアメリカ人(そしてわたしも)である。

「孤独なランナー」日本盤
「孤独なランナー」日本盤

 曲のタイトルである“Running on Empty”は「ガス欠状態で走る」という意味だ。ジャクソン?ブラウンがいつもそうしてレコーディング?スタジオへ向かっていたことが歌の元ネタだそうだ。しかし、これを「運転」ではなく「人生」に読み替えれば、心が空っぽの状態でひたすら走っている、青春の1ページの光景に瞬時に変わるわけだ。つまり、駆け足の人生、駆け抜ける青春、陸上部の日々、絶賛部員募集中!ということである。

 Looking out at the road rushing under my wheels
 タイヤの下を過ぎてゆく道路を見ながら
 Looking back at the years gone by like so many summer fields
 夏の原っぱのような過ぎ去った年月を思い出す
 In ’65, I was seventeen and running up 101
 1965年、ぼくは17歳、101号線を走っていた
 I don’t know where I’m running now, I’m just running on
 今どこを走っているのかぼくはわからない、ただ走り続けている

 Running on, running on empty
 走り続ける、空っぽのまま走る
 Running on, running blind
 走り続ける、何も見えないで走る
 Running on, running into the sun
 走り続ける、太陽に向かって走る
 But I’m running behind
 けれど、走っても追いつかない

 「タイヤの下」とか「101号線」とか、自動車に乗っているとおもいきや、“running blind(何も見えないまま走る)”というフレーズが入ってくることで、これが一瞬で単なるドライブの歌ではなく、人生についての詩になるのだ。なるほど、比喩って手軽で便利だな。

 Gotta do what you can just to keep your love alive
 できることをしなきゃ、きみの愛が死なないように
 Trying not to confuse it with what you do to survive
 そのことと、生きるためにすることとを履き違えないようにしなきゃ
 In ’69, I was twenty-one and I called the road my own
 1969年、ぼくは21歳、その道を自分のものだと決めた
 I don’t know when that road turned onto the road I’m on
 あの道が、今走っている道にいつ変わったのかは知らない

 (chorus)

 Everyone I know, everywhere I go
 ぼくの知っているみんなが、ぼくが行くところはどこででも
 People need some reason to believe
 人は信じるための理由が必要だ
 I don’t know about anyone but me
 ぼくは自分のことしかわからない
 If it takes all night, that’ll be all right
 ひと晩かかるとしても、大丈夫
 If I can get you to smile before I leave
 ぼくが去る前に、きみを笑顔にできるなら

 Looking out at the road rushing under my wheels
 タイヤの下を過ぎてゆく道路を見ながら
 I don’t know how to tell you all just how crazy this life feels
 きみたちにどう伝えようかな、この人生がどれだけイカれてるか
 Look around for the friends that I used to turn to to pull me through
 助けてくれた昔の友だちを探す
 Looking into their eyes I see them running too
 彼らの目をのぞき込むと、彼らも同じく走っているのがわかる

 ここで、孤独な旅を自分ひとり続けていると思っていたら、仲間もみんな必死に走っていることに主人公は気がつく。孤独なランナーとは、孤独なのだが孤独ではない、というわけだ。昔、深夜に放送されていたコメディ洋画のなかで、マヌケな3人組が“Lone Rangers”と名付ける話があった。Lone(孤独)な3人が集まって複数形になったら、オレたち“Lone”じゃなくないか?という笑い話が挿まれていたが、あれはあれで奥が深い話だったのかもしれない、と今になって思う。

 Honey, you really tempt me
 ハニー、きみにとってもそそられる
 You know the way you look so kind
 優しくみえるような仕草をきみは知っているんだ
 I’d love to stick around but I’m running behind
 そばにいたいけど、遅れをとっているからね
 You know I don’t even know what I’m hoping to find
 何を見つけたいかさえわからないんだよ
 Running into the sun but I’m running behind
 太陽に向かって走っているけど、追いつかない

 1人で走ろうと、何人かで走ろうと、身体に走れと命令するのは自分の精神だけである。が、他の人がいることで走る気力が増したりもする。走るのは孤独なようでいて、孤独でないかもしれない。よくわからなくなってきた。うーん、走ることは本当に孤独なのだろうか。その答えを見つけるために、芸工大陸上部に入ってみるのもいいかもしれない。

昨年のさくらんぼマラソン
昨年のさくらんぼマラソンで足を痛めて泣きながら走るわたし
(撮影:夕ヶ谷姉妹#3 mori)

 そうそう、この「かんがえるジュークボックス」は今号で3年目に入ります!お読みくださっている奇特な読者の皆さま、ありがとうございます。これからもどうぞよろしく。

 それでは、次の1曲までごきげんよう。
 Love and Mercy

(文?写真:亀山博之)

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亀山博之(かめやま?ひろゆき)
亀山博之(かめやま?ひろゆき)

1979年山形県生まれ。東北大学国際文化研究科博士課程後期単位取得満期退学。修士(国際文化)。専門は英語教育、19世紀アメリカ文学およびアメリカ文学思想史。

著書に『Companion to English Communication』(2021年)ほか、論文に「エマソンとヒッピーとの共振点―反権威主義と信仰」『ヒッピー世代の先覚者たち』(中山悟視編、2019年)、「『自然』と『人間』へのエマソンの対位法的視点についての考察」(2023年)など。日本ソロー学会第1回新人賞受賞(2021年)。

趣味はピアノ、ジョギング、レコード収集。尊敬する人はJ.S.バッハ。