近世期における出羽国村山郡の村々と水論の関わり方
片桐颯太
山形県出身
竹原万雄ゼミ
目 次 序章/第一章鳥居原堰普請問題/第二章蔵増村の水論/終章
本研究の目的は、出羽国村山郡における近世期の水論の事例から、村々の水論に対する関わり方を明らかにすることである。本研究では、現山形県天童市高擶?蔵増地区に残されている「高擶村名主萩生田助左衛門家文書」と「市川和吉家寄託文書」から高擶村と蔵増村の2つの地域の水論に対する関わり方の違いを明らかにしてゆく。
「高擶村名主萩生田助左衛門家文書」には、高擶村と芳賀村(図1)の安政3年から安政4年にかけて争われた鳥居原の堰の普請に関する水論の史料が残されている。この高擶村と芳賀村の水論は、高擶村が行おうとしていた普請に対して芳賀村がその普請の差し止めを求めたことで水論へと発展した。高擶村と賀村では、3度の回答を行い、その後両村の代官や名主など立ち会い見分が行われた。両村は高擶堰に置かれている添石や、土手の今後の扱い方、普請の際にどのようにして行うかなどを決め、内済が成立した。
「市川和吉家寄託文書」に残されている史料には、宝永期、文化期、文政期の3つの時期の蔵増村の水論に関係する済口証文などの史料が残されている。宝永期の高木村との水論では、高木村と蔵増村(図2)が利用していた舟橋堰を巡って水論が起こった。両村は平常時と渇水時でこの舟橋堰の利用の仕方を分け、渇水時には両村の役人が立ち会って分水を行うことで内済した。文化期は、蔵増村村内で用水の利用を巡って争われ、お互いが相談などを行いながら、用水を利用していくことが決められた。文政期の高野村(図3)との水論では、洪水の影響を受けてしまった蔵増村と高野村が、影響を受けてしまった用水をどのようにして利用するのか、また再び洪水などの影響を受けてしまった時の用水の取り扱い方などが決められていったが、解決には至らなかった。しかし、他村の名主が立会人となって水門を築き上げたことで蔵増村と高野村の問題は解決された。
本研究では、「高擶村名主萩生田助左衛門家文書」と「市川和吉家寄託文書」からその村の特徴や水論に対する関わり方を視点とし、分析を行った。分析の結果、高擶村は自村を豊かにするために水論に関わっていったことに対して、蔵増村は、他村との共生をしていくために水論に関わっていったと位置付けたい。