『御修覆帳』からみる仙台藩の建造物修復の研究
藤井脩太郎(芸術文化専攻 歴史文化)
兵庫県出身
竹原万雄ゼミ
目 次 仙台藩における修復制度の概要/修復関連史料からみる仙台藩の建造物修復/建造物修復の実態に関する一考察
陸奥国仙台藩は、4代藩主伊達綱村期の寛文12(1672)年より幕末にいたるまで、藩内に所在する特定の建造物を藩営で修復するための制度を整備し運営していた。その際に、作事組織の役人が修復対象となった建造物(「定御修覆所」と呼称された)の図面を修復時に参照する目的で所収した帳が、本研究の根本史料として活用する『御修覆帳』である(図1)。先行研究では、『御修覆帳』を文献史料として活用し、当藩の修復制度内容や本帳の成立年次、史料的価値について論及されてきた。しかし、具体的にどのような方針に沿ってどのような修復が行われていたのかについて、修復の個別事例を検討したうえでの論及はされてこなかった。
本研究は、修復に関する文字情報が記載されている建造物図面を取り上げ、具体的な修復の内容を明らかにすることを目的としたものである(図2)。それとともに、個別の修復事例の比較から共通性を見出すことにより、当時の修復における方針について明らかにすることを目的としたものである。その結果、修復の内容については、延宝?貞享年間(1673~1687)に修復が集中していること、建造物の屋根部分を修復する件数が多いことを明らかにした。修復方針については、建造物の原形を維持することで、伊達家藩主の権威を後継しようとする意図のあったことを指摘した。
また、本研究では修復事例の分析を通じ、仙台藩の「修復」が現在の文化財保存に相当する意識で行われていたか検証した。検証に際し、『御修覆帳』だけでなく、仙台藩の正史である『伊達治家記録』を検証した先行研究も参考にした。それによると、奥州一宮である鹽竈神社の社殿を修復する際、伊達綱村が社殿の原形が判るまで修復を延引していたと指摘された(図3)。このことから、仙台藩の修復では建造物が原形を保って残されていることが重要事項であったことが窺えた。以上の結果をふまえ、仙台藩の「修復」が修理に加えて保存の意味合いを含み、オリジナルの尊重を修復理念とする現在の文化財保存修復と同様の意識を仙台藩が持って修復していた可能性のあることを指摘できた。